シェストフ『悲劇の哲学』(2)

(承前)
 どうしてシェストフは、トルストイの《「善、兄弟愛、それが神である。」》という《公式》を提示したのか、そしてこの後にドストエフスキーという作家を接続するのか、について考えてみると僕は興味ぶかい点をそこに見るように思う。トルストイの《公式》は、彼の『懺悔』のなかで描かれた、生涯捉われていたところの懐疑主義、厭世主義――さらにはそうした想念を生み出す源となっていた「人間というもの、それはつまり生きる上で考えずにはいられない存在だ」という事実に対し、いかに《手馴づけ》るのかに全力が注がれた結果であったのだろうと思う。その結果としての《公式》をシェストフは《檻》と表現したが、ちょうどトルストイの人生も自己の想念の周りに柵を囲うように生活というこまごまとしたものを列挙するものだったようだ。農地経営、貴族生活、貧者救済、執筆、さらには菜食主義や断酒、禁煙、皮靴づくりの体験にいたるまで、この作家はじつに多くの生活を身の周りに配した。この生活の経験が『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』『復活』といった長編の中に織り込まれ、目にもあざやかな色どりを物語に加えているのだけど、それは後に白鳥正宗、小林秀雄が論争したように、実生活と芸術的精神の統一というものではなかった、いやすくなくとも、シェストフはそれをトルストイの現実と理想の統一・または乖離といったテーマとは見ずに、トルストイという「現代」の作家が懐疑主義、厭世主義のぎりぎりの崖の上から深淵へ赴かなかったことをこそ重要としているように思う。だから、では深淵とは? という問題が出てくる。そこで、ドストエフスキーが本書で呼び出されるのだろう。
 そうだ、どうしても触れておかなければならないのだけど、シェストフはここからドストエフスキー懐疑主義、厭世主義への直視へと入っていく、その過程で、デカルトの教義である《「De omnibus dubitandum」(総べてを疑ふ)》を取り上げてこれを《何にもならない》ものだと一蹴する。(-p113)なぜかというと、《人は方法論的な一法則のために自分の足場を失ふ様なことを欲しないものである》(-p113)からだという。トルストイは、あくまでもこの《方法論》によって懐疑、厭世に対処しようとしたのであり、それ故の《公式》であったとシェストフはつづけて、こうした弁証法によるところの思想と自身の《悲劇の哲学》とはちがうものだと位置付けようとしているように見える。
 では、シェストフのいう《悲劇の哲学》とはなんなのだろう? 本書のなかでは、デカルトの法則を否定した後に描きだされる。

《事実は寧ろその反対だ。足場を失ふことが懐疑の始まりなのである。理想主義が現実の攻撃に対して無力であり、又、運命の意志の儘に人が現実にぶつかり、美しい「先天的なもの」がすべて嘘偽に過ぎないことを発見して驚いたときに、その時始めて懐疑の心が彼の内に湧き、古い空中楼閣の壁を一挙にして破壊するのである(中略)人は地上の敵共に直面して恐しい孤独を感じ、己に最も忠実な、親しい者も決して自分を救つてくれることが出来ないことを知るのである。》(-p113)
《悲劇の哲学(原文傍点)が始まるのは此処からである。希望は永久に消え失せた。然も生きてゆかねばならず、生命はまだまだ長い。仮令死にたくとも、死ぬことは出来ない。》(-p114)

 この引用部の「光景」は、僕などは野間宏の『暗い絵』、椎名麟三の『深夜の酒宴』で見たものと重ねてしまう。《悲劇の哲学》は、このようなものだった。《古い空中楼閣》とはソクラテスプラトンからデカルト、カント、トルストイといったロゴス、理想、善、人類愛のことであり(同頁)、その崩壊後にたった一人《孤独》に自分が存在しているという感覚、しかも、《死にたくとも、死ぬことは出来ない》のだという、《生きてゆかねばなら》ない責務のようなものを負った者の哲学をシェストフは提示する。もう少しこの「光景」の引用をつづければ、その世界とは、

《諸君はそこでは、諸君が期待してゐるもの、如何なる形であれ「美」と呼び得るものに出遭ふことはないであらう。恐らくそこには怪奇なものや醜悪なものしかないであらう。然し乍ら疑なく此所にあるのは現実(原文傍点)といふものである。それは全く新しい、未だ曽て聞いたことのない、今日迄人眼に曝されなかつた所のもの(後略)》(-p114)

 であるという。さっき出てきた《生きてゆかねばなら》ないという重い責務を、シェストフは『カラマーゾフの兄弟』の中からも引用している。ドミートリィ・カラマーゾフの口を借り、ドストエフスキーは書く。《「彼は其夜沢山のことが判つた。私は汚辱の内に生きることが不可能な計りではなく、かく死ぬことも出来ないのが判つた。」》
 このドストエフスキーが書く責務とはなんだろうか、という問いが、シェストフの狙いであるように僕には思える。この責務とは、シェストフの狙い、見立てでは《牢獄の哲学》(-p120)とでも呼ぶべきものなのだそうだ。そしてこれこそがトルストイドストエフスキーとを区別するものであり、ドストエフスキー単体の持つ特質であると述べる。
 ドストエフスキーの特質、と僕は書いたけど、これはこの作家の経験にその根を持っているものだ。理想主義者であったという過去と、そこからの転回を遂げて、地下室の住人となったパーソナリティが、彼に独自の思想を付与したという意味で書いた。シェストフはこのうち、理想主義者からの転回に力点を見出し、《彼は転向者であり、裏切者であつた。》(-p119)とする。そしてこうつづける《かゝる人には観念は復讐をし、且その復讐は苛酷である。眼に見えぬ、内的な恥も屈辱も、彼に対しては容赦されない。ドストエフスキーの牢獄は四年間ではなく、一生涯続いてゐたのである》と。ここからが、シェストフの思想のアクロバティックな展開があるように僕は読んだ。ドストエフスキーが理想主義者であったという過去を持ち、それが獄中の体験によって変容せざるをえないという事実があった。彼はトルストイのように生活に妥協してでも幸福を追求することができないでいるという意味で、獄を出てのちも自己に責務を課していた人間であるのだ。《生きてゆかねばなら》ないという自己の責務を、シェストフは精神的な囹圄と見たのである。そうした経歴、環境、思想の形成と変容は、ドストエフスキーという作家に特殊・独特・特徴といった形容句を与えるものだろう。でもシェストフはそうじゃないと定言する。ドストエフスキーのような生活を送った人間にこそ、《真理》を見る眼が具わるのだというのだ。

《恐らく人は真理に到達するためには、凡俗な日常生活から解放されねばならぬのではないか? さうなると牢獄は「信念」を否定しはしないで、反対に之を是認するであらう。かくて真の哲学は牢獄の哲学であらう。……》(-p120)

 ここでは、異常こそが(本のいう主題に沿うならば《悲劇の哲学》《牢獄の哲学》)「現代」においては正統なものであるという作者のテーゼが語られているように思う。そしてここに、大時代的な壮言の臭いを若干嗅ぎつつも、カント以降の現代思想への挑戦的な作者の声が聴かれるのじゃないだろうか。というのも、このあとに作者はニーチェを召喚するからで、ここで語られた《悲劇の哲学》の大系化をはかる。が、僕はニーチェについて限りなく無知であるので、ここより先は詳述することができない。
 徒らに文字を書き連ねてきたけど、この本の感想はさすが、戦後文学に華をさかせた実存主義の第一陣として、日本に紹介されたシェストフだなという曖昧な読後感だった。平野謙は『現代日本文学論争史(下巻)』の中、「シェストフ論争」についての解説で、この『悲劇の哲学』が野間宏椎名麟三梅崎春生といった第一次戦後派の作家に与えたであろう影響に触れ、これを「実存主義の土着化」と書いていた。それがどのようなものであったのかという具体を知るための読書であったのだけど、いますこし咀嚼には時間がかかりそう。理解のためにはニーチェはもちろんのこと、カントも読まねばならないだろう。あと、《牢獄の哲学》に関して、北村透谷の「楚囚之詩」を卒然思いだした。