シェストフ『悲劇の哲学』(1)

 神奈川のとある繁華街の古本屋にて購入。値段が書いてなかったので店主に「いくらですか?」と訊くと、いかにも適当そうなおやじで、「300円でいい?」との返事。よろこんで買った。
 本じたいは昭和10年代に爆発的ヒットしたものを、戦後すぐに創元社が増刷したもの。それでも300円はお買い得だ。

 さて。この本、とにかく文章がムツかしい。これには幾分か翻訳者(河上徹太郎)の文体の選択があったのだろうけれど、それにしても分かりづらい文章の奔流といった印象。

《悲劇の哲学! 人間悟性の最高綜括として、又当代の科学が通例称せられてゐる所謂崇高なピラミィドの頂点として哲学を観てゐる読者は、このやうな結語法に抗議するかもしれない。》(-p3)


 これは「序」の冒頭だけど、ここからして僕にはすでにムツかしい。でも、まだ、分からない上でも読みすすめてはいける。しかし、

《異常! これは、科学の人々が、この世界で何か統計学と「青銅の如き必然性」以外のものを発見しようといふ衰へゆく希望をまだ放棄しない人を、これまで脅かして来、今も変りなく脅かしてゐるところの恐しい言葉である!》(-p18)

 という一文などに出逢うと、どうにも困惑してしまう。この書きぶりは、どことなく宗教者や神秘主義者の演説を感じさせる。これに立ち会ってしまったときのような戸惑いを感じながら読んでいった。さいわい(?)、本題に入っていくにつれて文章はやや簡易になっていった。
 本題はそのものずばり「ドストエフスキー」について論じたもの。だから、本それじたいのテーマは、この作家を端緒・媒介とした思想の敷きつめの試みだろう。
 ヨーロッパに普及し、そしてロシアにまで足を伸ばして来ていた啓蒙主義人道主義を論じ、その先端(つまり理想主義的な社会主義者であった)にいたドストエフスキーから論は書きすすめられる。いや、正確にはそこから転げ落ち、《地下室の人物》となったドストエフスキーを登場させる。

ドストエフスキーの作家としての仕事は、二つの時期に分たれる。最初の時期は「貧しき人々」に初まつて「死の家の記録」に終り、次の時期は「地下室の手記」に初まつてプーシキン百年祭に於ける講演に終つてゐる。》(-p34)

 作者は、まずドストエフスキーという人物解剖に入る。《最初の時期》はかんたんに、ベリンスキー、ゴーゴリに学んだ、やや抒情的な、熱しやすい理想主義者としての青年を描きだす。でも、書きたいところはそこではないようで、ベリンスキーと仲たがいし、かつ獄中経験、擬似的な死刑の体験を経た30代のドストエフスキーを書くところで、作者の筆は俄然活気づくような調子を帯びる。
 ここで、同時代の作家としてトルストイを作者は加える。ここに書かれる「トルストイ論」は、引用、孫引きによってたいていのトルストイ論に入っている。じじつ、かなりの名論文だと思った。シェストフは、ドストエフスキートルストイの著作の中から――ここはかなり慎重に――彼らが啓蒙、人道、あるいは理想にどのように耽り、甘美な物語を創り上げていったか、そして、それらの《信念》が現実の前にさらされたときに、どのようにふたりは対峙したのかを汲みとっていく。
 たとえば、作者はドストエフスキーの『死の家の記録』、『地下室の手記』から引用する。

《「私は永久に此処に居るのではなく、唯単に数年の間だけである。さう考へて、私は枕に再び頭を横たへた。」》(-p56)
《「牢獄を出てからも私は生きたいのだ」》(-p57)
《私が毎日の御茶にことを欠かねば、此の世がひつくり返つてもいゝ。」》(-p80)

 あるいは、トルストイの『戦争と平和』の中の一文を引用する。

《人はパンのみで生きるものではなく、彼(ニコライ)は余りさういふもの、(傍点トルストイ)に重きを置き過ぎると、夫にいひたいのだが、然しそんなことはいふべきことではなく、いつても無駄だといふことを彼女は知つてゐた。彼女は只黙つて彼の手をとり、それに接吻した。彼はそれを自分の説が肯定され、同意された印だと思つた。……》(-p107)

 これらの一文ずつのなかに、作者はある恐ろしい深淵を垣間見た。それはつまり、ヒューマニズムとか啓蒙だとか理想主義だとかいう《信念》を内側から支える観念も、人間は現実を日々生きて行かなければならないという実際に対しては、何ら力を持たないという点だと思う。ここに、まず《悲劇の哲学》の第一の柱があるんじゃないか。
 ドストエフスキーの引用された文章は、そうした実際をよく示すものだろう。獄中にあるまで、「あんなに」人道的な信念に燃えていた青年が、救うべき対象である獄中の犯罪者を観ても《永久に此処に居る》わけじゃないと考える。さらには彼らと共にあるという感覚を超えて《私は生きたい》という願望を告白し、そして、有名な世界とサモワールとを天秤にかけて後者を選択するなどと宣言するにいたったのだ。
 トルストイの引用箇所は、家庭という幸福を維持するために妻が自己の《信念》を語らず、そのことによって夫の方は自分に妻が同意しているのだと決め込んで満足をするという、《判断》と《信念》の消失が描かれる。しかも、「そんなことは可能なのか? 人間が生きるうえで判断も信念も持たずにいられるなんて」という問い掛けに対する答えとして、つまり「そうだ。生きられる。それも幸福に」と言うためにこの引用部は書かれている。
 ふたりの作家の引用から、作者が読みこんだのはおよそ以上の事実だった。このふたりを並べたのは、かなり意図的だと僕は思う。シェストフはいま少しトルストイにかかずらう。
 トルストイが『戦争と平和』で提示したことは、《「より高いもの」は地獄に根ざしてゐる》(p-105)であったと作者はいう。「より高いもの」とは、つまり《信念》だ。あるいは理想だ。それを人間が望むよりも、つまり思想の崇高さ、鋭敏さというものよりも、家庭の、そして日常の妥協に満ちた幸福を肯定するということだと思う。その後に『アンナ・カレーニナ』が書かれるのだけど、この作品ではさらに妥協的幸福の強化が図られる。主人公レーヴィンに、農作業、地主としての農村の管理、家庭でのこまごまとした日々を送らせるのだ。つまり、思想よりも優越した現実を確かなものとするために、あらゆる外形による補強がほどこされる、と作者は論じる。
 そこまでしてトルストイが言いたかったこと、それはこうであったという。《彼は「真理」を語り、且その真理が人生を根底に於いて揺るがせな》いという事実――とうぜん、それもまたひとつの「信念」じゃないのか? という疑問が生じる。すくなくとも僕は読みつつ感じた。だけど、次の一節を読んで納得したのだった。


《彼はあらゆる手段を尽して、此の懐疑主義とか厭世主義とか名づけられる猛獣をば手馴づけようと努力してゐる。彼はそれをば我々の眼から隠しはしないで檻の中に閉ぢ込めてゐる。しかもその檻は頑丈で見た所壊れさうもないので、極めて疑い深い人も、その動物はもはや危険ではなく、完全に馴らされたと信じてゐる。》(-p109)

 トルストイはひたすらに懐疑主義、厭世主義を恐怖した人間だった。ふたつの観念からの逃走は最期までつづく、この作家にとってのライフ・ワークだっただろう。それを馴らすため、御すために、この作家はあらゆる方法を導入したわけだ。結婚の幸福を提唱しもすれば、生活を信念の上位に置きもする。そうしてその方法の《窮極》的な公式としてトルストイが提示したのは、

《「善、兄弟愛、それが神である。」といふ言葉である。》(p-109)

 そうシェストフは書く。この公式の前には、ひとまず懐疑主義も厭世主義も消え去ってしまうだろう。心優しい農民によって構成される世界に自己が居る、そう信じることで、まずは大丈夫なのだ。そして、かなりこの論はただしいだろうと僕は思った。
 ここまでで言えることは、トルストイは公式によって懐疑、厭世――そしてこの両者の行き着くところとして――自殺を回避した。そのことは同時に、この作家が最初に書いたシェストフの見たある恐ろしい深淵を彼自身見もすれば感じていつつも、最終的には直面しなかったということを示している。それはそれで、ひとつの対峙の仕方ではあるが、ここに至ってついにドストエフスキーに作者の眼は向けられる。作者いわく、彼こそがこの深淵と対峙し、直面した作家であるというのだ。

(ながくなったので、つづきはまた今度書きます。)

悲劇の哲学 ドストイェフスキーとニーチェ (古典文庫 18)

悲劇の哲学 ドストイェフスキーとニーチェ (古典文庫 18)